おばさんの論理は大人の論理であって、子供の論理からするとあまりにも理不尽(理解できないもの)です。
つんつん草?(イネ科の植物)の新芽の先を抜いてその根元の白い部分とか。
戦時下の庶民を描いた映画やドラマには、このようなシーンが結構ありますね。
ぼくの小説が戦後60年経った現在、違う形となり、今を生きる人たちに、戦争の惨たらしさを少しでも伝えられれば、原作者として有難いこと」とのメッセージを寄せている。
長期的な展望をもてなかった清太 叔母さんの家を出る直前、清太は節子に、次のように言います。 そういう着眼点に、自分でも気がつかない中年男性の愚かさにも、失望してします。
と近郊を舞台に、戦火の下、親を亡くし、引き取り先の叔母と険悪な仲にあった14歳の兄と4歳の妹が、前後の混乱の中を兄妹で独立して生き抜こうとするが、結果誰にも相手にされなくなりで無残な死に至る姿を描いた物語。
ジブリの教科書4 火垂るの墓()(スタジオジブリ編、、2013年10月10日)• ただ、あの映画の最後の方に、「埴生の宿」の歌が流れながら、節子がブランコで遊んだりしているところが思い出されて、やりきれない思いです。
自分の欲望に勝てなかった現実が、たくさんあったそうです。
まだ言葉も喋れないような頃に、危ないことや、やってはいけないことをしている時、皆さんはどうされてましたか? 気を反らせたり、叱らずに済ませるべきなのでしょうか。 - 金曜ロードSHOW! でもやっぱりちょっと違うんじゃね?って考えてしまうんです。 」と怒り始めました。
17清太の死因の本当の意味とは? 清太のプライドは父親が海軍将校だ!そして妹は自分が守るという儚いものでした。 (2013年11月22日放送分)• いま私たちが普通に3度3度のご飯を食べる感覚で、当時なら1ヶ月で消えてしまうんではないでしょうか。
それが出来なかったのは少年がやはりプライドが高かったからで、これは原作者のの実体験が反映されているのだろうけど、こういう境遇の中で決然と4歳の妹を連れて家を出て行ってしまうということは誰にでもできることではないから、それを決行した少年への共感と憧憬を同世代の人々は感じたのではないかと思う。
収録内容:火垂るの墓、野坂昭如談話• こんだけあったら何とでもやっていけるわ。
節子の面倒を見なくてはいけない。
雑誌『』に連載していたの同名小説(『』)を原作とする。 なのに、TVドラマの方は妹の死のあとで、おばさんが「戦争とはこういうもの」と自分を正当化し、そこに視聴者の共感を得るように演出してしまっています。
14でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍人、民間人合わせて310万人の人が死亡し、都市面積の30%が消失したと言われています。
つまり、その当時からすると清太が働かない姿は「まさしく異様」だったのです。
実際兄弟も二人がかわいそうだと目を向けてはいるが、私のを少しあげるという行動に移れなかったのは、ひもじい空腹の為としか考えられません。
家事を一生懸命やっても、なんか空回りというか、なんかきっとだんだん家族に興味をもたれなくなる家政婦みたいになっちゃうんじゃ・・・と思うと、よくいる見分けがつきにくいというか、主婦=判別不可能な「近所のおばさん化」する中年女性。
これ以外の期間はいい思いしていたわけ) 紙と木でできた町には最小限の爆弾で最大限の効果あげましたけど。 湿疹も治らず下痢が続いていた節子はついに倒れてしまい、栄養失調だと診断されます。
20(その1)からの続きです。 すぐケロっとしてます。
ドラマ版の方の主張が子供の論理より大人の論理を優先させているような印象を与え、大人=強者、子供=弱者という構図で考えると、映画版(アニメ版)に比べて相当低俗なものになり下がってしまっていると言わざるを得ません。
どこにも食料がない。
裕福な人だって、ためてある分は、まだどうなるかわからないのに人にほいほいあげることはできないのじゃないでしょうか。
ヘアメイク - 小堺なな• 未亡人(清太の親戚) - スタッフ [ ]• ごんごんぶつける訳ではなくて、床につっぷするんです。 編『庵野秀明 パラノエヴァンゲリオン』太田出版、1997年、p69-p70• 身につまされる話ですね。 おばさんの論理は大人の論理であって、子供の論理からするとあまりにも理不尽(理解できないもの)です。
6監督 - 日向寺太郎• ただし769名(士官47名、下士官兵722名)が救助されていることから、本当の生死は不明である。
ところが、清太っていう子は、それを耐えることができない。
9月 砂糖、マッチ、小麦粉、食用油の集成配給切符制度が設けられる 10月 配給米の輸送をトラックから電車に切り替える。
死因とされる湿疹が節子の背中に表れますが、清太は最初その湿疹を汗疹(あせも)だと思っていました。
「なぜ生き残ったのか?」 そうした思いを噛みしめ、戦争孤児達は行き場を失ってさまよいました。 元々小食ではあるのですが、最近夕食をほとんど食べなくなりました。 もちろん時代が時代ですから、派手なパーティーをやったり、観光旅行にでかけたりということはできなかったでしょう。
9今年の春には保育園に行く予定もあり・・・できれば一人で食べれるようになって欲しいのですが、こんな状態では少し不安です。
関心がない。
ちょっと辛口すぎるかもしれませんが、おばさんは母親を亡くした兄妹を快く受け入れてくれます。
人それぞれの解釈があると思われる映画ですが、私は経済的に裕福に育ったプライドの高い兄妹が戦時中の食べる物も不自由な時期にも生活水準を落とせない怖い話だな…と思いました。
Q 戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい 戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
これは結構キツめに言うので、私の顔を見て怒っているのを確認して、乗りかけてやめます。
どういうことでしょうか。
戦時中の富裕層の若者は、一般に其々の学校に学びながら、休日は繁華街に繰り出し映画館や喫茶店、撞球場や卓球場などの遊技場で遊んでいました。
やっぱり、あのウチへ置かしてもろうたほうがええ。 最終的に二人は自分の意思でを出ていくがそれを見送ったときの表情は心配するのとせいせいしたという感情がないまぜになっているように感じられる。
私は、このおばさんにも主人公のように反発を覚えましたが、それよりも… 最後に節子を火葬しているその山の山荘に遊びに来たお嬢さんたちが楽しそうにしているという状況の方が衝撃的でした。
それと並行して行われたのが、個人宅への保護委託と養子縁組の斡旋でした。
余貴美子さんのお話や、温泉ブームの話については、何時の時代でも金をかき集める才能がある方はおられます。